「おい、黒羽を入れるのかよ」 床を足で蹴る。 ふわりと身体が浮き上がり、手を伸ばす。 驚くほど伸びる身体。指先。 背中に羽が生えたかと思うほどの、長い滞空時間。 ああ、届く、と思った。 次の瞬間、ボールが床を叩く音が耳に入り、身体は再び地面へと降りる。 「ダンクシュート!?」 「嘘だろ、あの身長で?」 振り返ると驚くほどの歓声が自分に向けられていた。 いつの間にか集まった大量のギャラリーが、口々に何か叫んでいる。 ダンクシュート。 ああ、そうか。あの枠に僕は手が届いたのか。 自分の指先を見つめる。 次はもっと上まで、その指先を伸ばせるような気がした。 だが黒羽の高揚した気分を切り裂くような言葉が、敵チームの中から聞こえた。 「何か…ズルしたんだろ?」 「えっ?」 黒羽は驚いてそちらに視線を向け、そしてドキリとする。 明らかな敵意を浮かべた幾つもの瞳が、こちらを睨んでいた。 「な…なに言ってんだよ。目の前で見たろ? ズルなんてどうやったら出来るんだよ」 チームメイトの一人が抗議の声をあげる。 「そりゃ…そうだけどさ」 「でも、ありえねえだろ? ダンクとか」 「なんだよ、おまえら。負けてるからってみっともないんだよ」 「なんだと、てめえ!」 「おい、よせって。試合中だろ」 お互いのキャプテン同士が、どうにかその場を収めたが、険悪な空気はそのまま残り、試合自体も重苦しく気分の悪いものとなった。 練習試合が終わった後、一人の少年がポツリと呟く。 「だから嫌だったんだ。黒羽を入れるの」 それが敵の言葉でなく、自分のチームメイトから出た言葉だったことに、黒羽はひっそりと傷ついた。 無責任に見学していただけのギャラリーは、黒羽が作った大差での勝利に歓声を上げている。 しかし華やかな歓声とは対照的に、選手達の間には黒々と重い空気がよどんでいた。 その日、学校の帰りに黒羽は何人かの生徒に取り囲まれた。 今日のバスケ部のメンバーではないが、見覚えのある顔が混じっている。 ああ……。黒羽は心の中でため息をついた。 きっと前に、今日のように悪目立ちして、それが気にくわないと思われたんだろう。 何もかも、ひどく面倒くさかった。 逃げることすらも、今日は億劫だった。 結局、黒羽は手ひどく殴られるはめになった。 家にたまたま来ていた冬馬涼一が、黒羽の顔の痣に驚いて目を見開く。 「なんだよ、コウ。ケンカしたのか?」 「してない…」 「してないって。えーと…じゃあ、一方的に殴られた?」 黒羽は答える代わりに目を伏せた。 「ああ…なるほどね。目立つとか言われた?」 黒羽の肩が微かに揺れた。冬馬はくすりと笑う。 「やっぱり」 「なんで…わかるの?」 「ああ、だってオレも目立つからな。コウはなおさらだろ? 想像くらいつくよ」 「涼一も……殴られたの?」 「殴られたな。けど、殴り返した。コウは殴り返さないのか?」 黒羽は頭を横に振った。 「逃げる……」 「ふうん。でも今日は逃げなかった。どうして?」 黒羽の沈黙に、冬馬は苦笑いしながら肩を抱いて顔を寄せた。 「コウ、あのさ。これからもコウは目立つぞ」 「涼一…」 「でもそれはコウのせいじゃない。悪くないのに何故か目立って絡まれる。そんなの嫌なだよな。で、毎回逃げるのも嫌になってて。でもどうしていいか解らなくて。それで今日はただ立っていた。そうなんだろ?」 黒羽は小さく頷いた。 「じゃあ、ケンカのやり方を教えてやるよ」 「えっ?」 黒羽が顔を上げると、冬馬はニッコリと笑った。 なんて綺麗なんだろ。黒羽の頬が熱くなる。 どうして涼一は、こんなに自分の気持ちが解るのだろう。 そして僕は、どうして男の人をこんなに綺麗だって思うんだろう。 「中学生になってから背が伸びてきたし、運動得意なんだろ? 力もついてきた」 「うん」 「じゃあ、やり方を知っておいた方がいい。逃げるのも限界があるし、かといってまったく何も知らない状態で下手に抵抗したら、相手に怪我させてしまうこともあるからな」 「怪我?」 「そう。コウの体格や身体能力の高さで、加減しないで抵抗してみろ」 想像して、黒羽はゾッとした。 確かに……。今日殴られている最中も、何度かやりかけた。 飛んでくる足を掴んで地面に叩きつける。それくらい簡単にできそうだったが、コンクリートに力任せに叩きつけたら人間の身体がどうなるのか。 怖くてとても手が出せなかった。 「だから、手加減のやり方を覚えるのさ。これからも理不尽にケンカに巻きこまれることは多いと思うよ。逃げられたら逃げたらいい。けれど逃げられなかった時は…」 冬馬の手が黒羽の顔をゆっくりとなぞっていく。 その感触に、黒羽の心臓の鼓動は早くなった。 「この綺麗な顔を、こんなに腫らさなくても、よくなるよ」 「涼一……」 「まったく。オレのコウをこんな顔にしやがって。許せないな」 冬馬の綺麗な手。 こんな風に撫でられて、優しく触られると、どうしていいか解らなくなる。 ずっとこうされていたいのか、恥ずかしくて逃げたいのか。 「まかせとけ。オレは、ケンカ負けたことないぜ」 「ホント?」 「ホントホント。強いんだよ、オレは」 「うん…じゃあ。教えて」 冬馬へのこの気持ちがどういうものなのか、まだ黒羽にはよく解らなかった。 思春期と呼ばれる歳になってから、身体に満ちてくる妙なエネルギーと同じように、冬馬への感情を黒羽は持て余していた。 ケンカは怖い。本当は関わりたくない。 でも、涼一が言うことも正しいのだろう。 そして……。 どんな理由でも涼一と一緒にいられる事が、僕は嬉しい。 たとえ誰が自分を嫌っても、学校で上手く行かない時でも、帰ってくればこんな風に涼一が撫でてくれる。涼一だけいれば、彼が僕を好きでいてくれるなら、他のことはどうでもいいや。 15歳の自分にどんな運命が待ち受けているのか、今の黒羽は知らなかった。この日常のすべてが簡単に無くなってしまうなんて、想像すら出来なかった。 未来には不安と期待が、ただ茫漠と広がっている。 どこまでもなんでも出来そうなほどのエネルギーと、彼を想う時の熱く奇妙な心の揺れ。 それが14歳の黒羽。今のすべてだった。 END |