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海里くんの事情



黒羽さんの足音が去っていく。
オレはそれを聞きながら、ひっそりと泣いた。
泣くなんてみっともないと思ったけど。自業自得だとも思ったけど。
でも涙は止まらなかった。

黒羽さんが好きだ。
初めて本気で人を好きになった。
だから…好きな人の前で、ほんの少しカッコつけたかったんだ。
ただそれだけ……。
阿呆だ。カッコつける為の何も、オレは持っていなかったというのに。
やっぱりオレは中途半端なんだとあらためて思う。
真剣な恋もしたことがない。
だから、間違えたのだ。
バカで、バカで、大バカだった。

家を出て行く前に、黒羽さんはオレにキスをした。
軽く触れる柔らかい唇。
しっとりと暖かい蠱惑的な舌。
あの唇に、どれだけ触れたいと思っていただろう。
想いはあっさり叶ったというのに、それは思い描いていたような「形」ではなかった。
あれは、取り引きのキスだ。
オレが欲しいのは、取り引きなんかじゃなかったのに……。

それでも、と唇をそっと結ぶ。
黒羽さんがここに触れていった。
痺れるような、その熱さ。
まだ感覚が残っているようだった。



オレは泣いて、泣いて。
それから床に転がって、一人暮しのアパートの汚い天井を涙でぼやけた目で見つめた。
「…しかた…ないな」
掠れた声が、のどから絞り出される。
「こうなっちゃったんだから、もうそれは仕方ない」
自分に言い聞かせるように、オレは声に出して呟いた。
「オレは阿呆だ。解ってる。だから泣いてる。自業自得だ。メッチャカッコ悪りぃけど、それも仕方ない」
仕方ないのだ。誰のせいにも出来ない。
一人で落ち込んで、一人で立ち直るしかない。
「うん。カッコつけたいとか、黒羽さんとどうにかなりたいとか、今すぐはどうにもならないことは、いったん忘れよう。忘れて、で…。今できることをするんだ」
忘れよう。
そう言いきるだけでスッと忘れる事ができたら、どれだけいいだろう。
オレは唇を噛む。
もちろんそんなこと出来ないから、声に出して言い聞かせたのだ。
なんでもいいんだ。立ち止まらずに動け。
今できること。それはなんだろう。
オレは緩やかに思い出す。黒羽さんに会う前に決意したこと。

映画祭のオープニングセレモニーに、潜り込む。
冬馬涼一と、ゾンビと、オレの足を奪いかけた、あの事件の真相に出来るだけ近づくんだ。

唇を噛んでそう決意したら、少し心が軽くなった。
やることが決まったからかもしれない。
どうしていいか解らず、立ち往生している時が一番苦しいんだから。
長い間家の中で身動きが取れず、もがき苦しんでいたオレは、その苦しさを一番よく知っていた。
あれに比べたら、どんな方向にも歩けるだけマシさ。
だから動く。動ける方向へ、とにかく動く。
セレモニーに潜り込むために、どういう方法をとればいいだろうか。
もちろん自分が持っているツテは、たった一つだった。




「ええ? 取材腕章って何のこと? 申請してないもん、そんなもの手にはいるわけないじゃないか」
松本一彦は、篁 海里が予告無くやって来て、突然頼み事をすることに、もう慣れていた。
しかし海里の問いを聞いた途端、彼は、ふん、と盛大に鼻を鳴らした。
「そうなのか。おっちゃんだったら顔広そうだし、裏とかからチャッチャッと手にはいるかなぁ、なんて思ってた。そうでなければ精巧なニセモノ作っちゃうとかさ」
「裏ってなんだい、まったく」
海里の言葉に、松本はあきれたように両手を広げる。
日本人としてはいささか芝居がかった動作だが、オネエ言葉を操る彼がすると、不思議とサマになって見えた。
「どこの裏だよ。僕をなんだと思ってるわけ?」
「怪しいおっちゃん」
間髪入れず返された海里の屈託のない言葉に、松本はプッと吹き出した。

三階建ての小ビルの最上階に、雑誌編集及びなんでも屋の松本一彦の事務所はあった。
雑誌と紙ゴミでごちゃごちゃに汚れた部屋の隅のソファーに、海里は松葉杖を立て掛けて、どっかり座る。
松本は笑いながら、ヒラヒラと手を左右に振った。
「あんた映画とかドラマとかの見すぎなんじゃないの? そんな何でもかなうような便利な『裏』なんて世の中には無いの。そりゃまあコネくらいならあったりするけどさ」
「やっぱりあるんじゃねえか」
「コネは人間関係。裏は非合法だろ? 全然違う。僕はそこまで怪しくないからね。陽の当たるところを堂々と歩いてるんだよ、これでも」
「解ったよ、悪かったって」
海里は一見素直に頭を下げる。
だがその瞳はまだ、何かを期待しているようにきらめいていた。

「それに記者の身分詐称なんて、バレたら怖いじゃないか。そのうえ腕章ってあんたが使うつもり? 松葉杖の記者って、怪しすぎ」
「うーん、やっぱりそうかな」
海里はぼりぼりと頭を掻いた。
「大分ちゃんと歩けるようにはなってきたけど。でもまだ杖無しじゃ危なっかしいんだよな」

「杖無しじゃ、危なっかしいのは事実なんだね」
「えー、うん、まあな」
松本はふんふんと頷いた。
「なるほどね。海里。ちょっと聞くけど。あんたはよーするに、単純に授賞式とパーティに潜り込みたいと、それだけなわけだ」
「そうだよ」
「特に何か内部に入り込むような特権が欲しいとか、望んでいるわけじゃないんだね?」
「ああ……うん。そう」
「ふうん。じゃあ裏とかくだらない事言ってないで、堂々と行けばいいじゃないか」
海里は目を見開いた。
「え? どういう事?」
「まったく最近の若い子は、裏から入ろうとか、ズルして潜り込もうとか、最初に考えつくのがそこだってところが情けないよね。正々堂々と入ればいいんだよ」

松本はそう言うと、机の中から何やら封筒をとりだした。
「おっちゃん…それ」
「じゃーん。映画祭オープニングセレモニーのチケット」
「えええ? どうして?」
松本は瞳に少しばかりの優越感を滲ませながら言った。
「あーいう式はね、招待客だけじゃなくて、一般枠も用意してあるの。別に記者じゃなくても外部の人間が入れるんだよ。ま、確かに取りにくいチケットだからさ。ツテでまわしてもらったところはあるけど。でも別にズルじゃないよ。余ってるところには余ってるものなのさ。それをまわしてもらっただけ」
「おっちゃん…」
海里は感動したような声を出した。
しかし松本は、海里の勘違いを手で制した。
「ちょっと、あんたのためにもらってきたわけじゃないんだからね。一枚しかないし、僕のだよ。だって上からたくさんいい男が降りてくるんだよ。拝まなくちゃ損じゃないか」
手を出しかけた海里は、ガクッと首を前に落とした。
「そっか…。堂々と行けるのはおっちゃんだけか。でも、それじゃ、さっきの言葉はなんなんだよ。期待しちゃったじゃねえか」
「あー、だからさ。海里、医者から証明書もらってきなよ」
「……えっ?」
いきなり違う話を振られた気がする。
驚いた海里が顔を上げると、松本はずるそうな笑みを口の端に浮かべていた。

「要するに、このチケット一枚で二人入れればいいわけだ」
「そんなこと出来るのか?」
「このチケットは一般枠で招待者名が入っているわけじゃない。だから僕が使ってもいいし、海里が使ってもいい」
海里は黙って頷いた。
「僕が使うと1名様限り。だけど海里が使った場合は、上手くすると付き添い枠が確保されるんだよね〜」
「へっ?」
「海里は上手く歩けない。補助や付き添いが必要な場合がある。その証明があれば、僕が付き添いとして入ってもいいって事」
「……チケットが一枚でも?」
「ま、そうね。砂城はそういう人多いし、ましてや海里はジャンクにやられたって事になってるから、優遇されるはずだ。しかも両脚無くしているわけだしね」
「あ…ああ」
海里は松本の言葉が、まだ今ひとつ胸に落ちない感じで、曖昧に頷いた。
しばらく考えて、眉を寄せる。

「なあ、それってやっぱり、ズルじゃねえ?」
「んん〜。まあその。そういう制度をズルで使われたら嫌な感じだけど。でも海里の場合、ズルといいきれない気もするんだけどなあ。嘘ついてないし。
だって海里は確かに一人でも動けるけどさ、パーティ会場でも普通に動ける自信はあるわけ? さっきの会話からすると、杖無しで出歩けるわけじゃないんでしょ? 松葉杖の記者になるつもりだったんならさ」
海里は曖昧に頷く。
「パーティ会場は人がいっぱいいるし、街のその辺歩くのとはやっぱり違うよ。もちろん砂城は施設としては充実しているわけだけど。
実際問題として、どう? それなりに不自由なんじゃない?」
「あ、ううん…。まあ確かに人がいっぱいいるような所では自由はきかないかもな」
「そうでしょ? だから無理するより、付き添いがいた方が断然いいって。医者だってパーティ行くんですけど、って事情話したら、納得して証明書出してくれると思うよ。誰も騙してない。ね?」
「どことなく丸め込まれてる気が……」
「なによ、気に入らないなら僕が一人で行くけど? 海里ったら裏だの偽造腕章だの黒いこと言うくせに、僕の提案は気に入らないって言うわけ? 
あんたと私、どっちが腹が黒いのさ。行きたいわけ? 行きたくないわけ?」
「あっ!! いや、解った。解ったよおっちゃん。行く。行きたい。えーと、医者に行ってくればいいんだな?」
海里が慌てて手を振ると、松本は満足そうに頷いた。

「そうそう。そういうこと。別に嘘つく必要ないんだからね。足が悪い人間がああいう場所に行くときには、付き添いがいる方が自分も周りの人も楽なのは確かなんだから。じゃ、僕は車椅子の手配をしておくね」
「えっ? ええっ? 車椅子って?」
「人混みの中で松葉杖は余計邪魔だよ。介助も面倒くさいしさ。だからいっそのこと解りやすく車椅子。いいじゃない、ちょっと足が悪いだけでも使う人いるよ、車椅子」
海里はブツクサと唸ったが、首を捻りながらも松葉杖をついて事務所を出て行った。
行ってらっしゃーい、と松本の陽気な声が背中を追いかける。

「さて、と。車椅子だと、トイレとかにも介助が必要だよね。海里、パーティの最中、トイレ行かないかなあ…」
松本は口の端に笑みを浮かべると、妙に楽しそうにレンタルサービスを調べはじめた。




 部屋に帰り着くと、途端に気が抜けて、海里は敷きっぱなしになっていた布団の上に倒れ込んだ。
「ああ…なんか疲れた。でも、これで一応、準備は出来たって事だよな。あとはパーティ当日に、出たとこ勝負でやるしかない」
ホッと息をついた瞬間、再び黒羽さんの顔が頭に浮かんできた。
しかし今度は、あまり悲しい気分にはならなかった。
やることが決まったからかもしれない。

うん。今は近づけないかもしれない。だから今すぐとかは考えない。
それでいいんだ。過去は取り返せないんだから。
だからオレは、ただ思い返した。

オレの大好きな、あの顔。
身体の下で、微かに聞こえた吐息。
伏せ気味の瞳。震える睫毛。
唇が少しだけ開いて、ピンクの舌がチラリとのぞく。
オレはその唇を塞いで、舌を吸った。
黒羽さんの身体が熱くなって、オレを誘っていた。

背中がゾクゾクして、身体中に獣のような衝動が走る。
そうだ。オレさえ躊躇わなかったら、間違いなく抱き合っていただろう。
向こうから誘ってきたんだから。
オレだって、痛いくらい張り詰めてた。

あの唇。柔らかく吸い付いてくる舌。
仰けぞった、白い喉。
そこに唇で印を付けたい。
夢中でキスして。息を共有して…。


実際のオレはそこでお終いだった。
白い肌に手も伸ばさなかった。
でも……。

想像の中で黒羽さんをオレは脱がしていた。
前にも一度、想像の中でセックスしたけど。
あの時は黒羽さんの身体を全然知らなかった。
でも、今は知ってる。ほんの少しだけど。
身体を抱きしめて、シャツ越しにあの人の体温を感じた。
唇も、どんな風に舌を絡めて、どんな風に吐息を漏らすのかも、今は知ってる。
だから…きっとあの時より想像はリアルなはずだ。
肌の感触を、もうオレは知ってるんだから。

そう思ったら、妙に動悸が速くなった。
黒羽さんを抱きたい。抱きしめてもう一度キスして。
その先に行きたい…。
ホントは知らない白い肌を、頭の中で顕わにする。
シャツをはだけさせて、肌に手を滑らせ、胸の突起を弄って唇に含む。

いいよな。勝手な続きを想像したって。
だってもし、何かの奇跡で時間が戻ったとしても、多分オレはまた黒羽さんを抱くことが出来ないだろうから。
きっとオレは立ち止まる。
いや、もしかしたらもう少しくらい先まで行くかもしれないけど。
でも間違いなく、オレは躊躇うだろう。

だから今、少しだけ。
少しだけ勝手な想像をしたって……いいよな。

あのまま進んだら、どうだっただろう。
オレを受け入れて、淫靡に動く腰を想像する。
ベッドの轢む音だけが…。
……って、今のオレの部屋にベッドは無いじゃねえか。あるのは今オレが寝ている布団だけ。
ええくそ。
この汚い布団に黒羽さんを寝かせられるかよ。
ここは嘘でもベッドだ。
そっか。ラブホにいきゃいい。
二人の初めてがラブホってのも、ロマンチックじゃないけど。
どーせロマンチックとか関係ない。
男同士だしな。
ちっ…。設定なんかにこだわるなって。どうせ妄想なんだからさ。
いちいち下らない突っ込みが頭の中に浮かんでくるのがうざったい。
せっかくの妄想なのに、ちっとも先に進めないじゃないか。

たぶん、なんというか…。
まだ黒羽さんのことを「男」って意識できないオレがいるんだろう。
いや、というか。
男だとキッチリ認識した上で、性的対象にしたいと思う自分の気持ちに戸惑っているのだ。
咄嗟にエロ妄想の玩具に持ち込めるほど、こういう状況に慣れてないって事なんだよな。

もちろん女だとは思えない。
そんな誤魔化しは黒羽さんをバカにしてる。
だって、なんて言うのか。誰だって思うことだと思うけど。
やっぱりあの人は「違う」んだよ。
どこか突出してるって言うか、超越してるって言うか。
性別なんて関係ないって言うか。
でもこれって、やっぱりオレ自身が「ホモ」ってことにこだわってるって事かな。
そうかもしれない。そうだよな。
ホモなんて偏見持ってたもんな。
でも、どう考えてもオレはホモだ。
黒羽さんが好きで、押し倒して抱きしめて、キスして、興奮してたんだから。
そして出来るなら、あのままセックスしたかったんだから。

全部脱がして、肌の奥まで触って。
あそこ触ったら、どんな声、出すのかな…。
それは…すごく聞いてみたい。

…………。

オレは布団の上で頭を抱えた。
セックスのことばっかりだ。オレが考える好きって、そればっかり。
だってオレ、まともに恋愛したこと無いんだ。
どんな女の子とだって、まずはベッドに行って寝ることから始めてた。
始めるどころか、それで終わりって事が圧倒的に多かった。
だから…。好きって思っても、セックスのことしか想像できない。
ベッドでどうするか、あの人と、どうなりたいか。
本当に真剣に好きなんだって思っているのに、やっていることは、いつものエロ妄想じゃねえか。
エロじゃないんだよ、オレが黒羽さんとしたいのは。
ああいや……。エロ行為も…もちろんしたいけどさ。

どうにもならないアンビバレンツに、更に布団の上で悶え転がる。

「好きって……面倒くせえ」

セックスだけでもいい、いつでも連絡を待ってると黒羽さんは言った。
呼び出せば、寝てくれるんだろう、オレと。
したいって気持ちだけは、すぐに叶うんだ。
「でも…違う…」
歯を食いしばって呟く。
オレの欲しいものは手に入らない。
でも、だったらせめて、身体だけでも手に入れる?
気持ちはざわざわと大きく揺らめいた。

「情報が少しでも手に入ったら…。そしたら考えるさ」
海里は小さく呟いた。
身体を手に入れるにしても、お情けじゃ嫌だ。
オレの好奇心を満たして、好きな人から必要とされる情報を手に入れて。
少しでもあの人と同じ高さに、オレも立ちたい。

そうしたら、もう少し率直に、オレは黒羽さんに伝えよう。
オレは黒羽さんが好きだって。

「言ってないんだよな、オレ」

たとえ想いが叶わなくても。それでも真剣な恋ならば。
告白が先だよ。なあ……。

真剣にそう思っているのに。
妄想の中の黒羽さんは、オレに抱かれて耳元で吐息を漏らしていた。
ありえなかった未来の、勝手な続き…。
本当の喘ぎ声って、どんな感じなんだろう。
『海里……』
そう思った瞬間、高くも低くもない、でもひどく印象的な声が、耳元でよみがえる。
これだけは、聞いたことがある本物…。
本物の声は、妄想の中でも、とんでもなく破壊力があった。
耳元に、暖かい息さえ感じる。

身体は勝手に反応し、海里は溜め息をついた。
ティッシュの箱に手が伸びる。

「好きだよ、黒羽さん…」

口から出た言葉は、再び耳から自分の中に入っていく。
それは熱い塊となって、身体も心も焼いていった。

END